2009年11月0・ウォッチ・
トルコ・ダイジェスト

デジカメ: ディジタル一眼 ニコン D90 18-200mm (35mmカメラ換算 28-300mm) 手持ち による撮影

写真31枚。

アナログの方は重いので、やめた方がいいです。
ブロードバンドの方は気にならないスピードで開けます。

最終更新日 : 2010.01.10、2015.04.21編集


2009年11月20日(金)-27(金)
2009年海外旅行第2段、トルコ、パック旅行、今回は読売旅行。
最初に行ったのは、トロイの遺跡。
解説はほとんどが、日本で買った「るるぶトルコ、イスタンブール」による


トロイ

シュリーマンが発掘に命をかけた伝説上の都市が実在
ホメロスの詩「イリアス」に出てくる伝説上の都市と信じられていたトロイ
ドイツの考古学者シュリーマンが、資材を投げ売って発掘を続け、1870年、ついに遺跡を発掘
この地に初めて集落ができたのは紀元前BC3000年ころ
その後、繁栄と没落が繰り返され、紀元AD500年ローマ時代までの間に、
9つの時代の都市が重なり合った、第1−第9時代のものが混在するという複雑な形となっている





トロイの木馬、1975年に復元したもの
BC1200年ころのトロイ戦争の原因は、略奪婚だった
人妻であったギリシア・スパルタの王妃ヘレネを、トロイの王子のひとりパリスが略奪した
怒ったギリシア軍が、トロイに攻め込み、ギリシア軍が残した木馬に兵を潜ませ、
夜襲を受けたトロイが陥落したという


登って、見下ろした


これが内部、意外と小さい


時代順に、9層に重なって造られたという、最初はBC2920-2500年代


一番上が、最初に発掘したシュリーマン






ランプ、第2市、BC2600-2300年
各層が現れている箇所
大理石の敷石で舗装された坂道で、南西の門から外への出入りに使われたという
トロイ初期のものだが、道の両側もきちんと縁取られている


聖域、第8市、BC900-350年
生け贄の儀式に使われた場所
井戸と祭壇が並び、アレキサンダー大王もここで供物を捧げたとされる
中央よりやや下の丸穴は井戸だとのこと


オデオン、第9市、BC350-400年
当時は、木製の屋根が付いていたという
トロイの遺跡の中で、もっとも保存状態がいい


あちこちに、大理石の柱の部分が転がっている




トロイ遺跡の模型



古代都市エフェソス

古代都市エフェソス。世界遺産には入っていないが古代遺跡。
解説はほとんどが、全面的に、現地で購入した ヒュセイン・チムリン「古代都市エフェソス」日本語版による





中央左が、アルテミス神殿跡


エフェソス全体の衛星画像
右下 南の入り口から入り、中央やや左の緑の出口から出た



古代都市エフェソス1

右下 南側の入り口から、左上 ケルスス図書館まで


左奥にオデオン


東西に通る平坦な道


オデオン
エフェソス市民の中から選出された議員や上流市民、クレテスとよばれた神官などが集まり
市政を協議する場であると同時に、文化的催しにも使われていた
1500人収容可能、排水路がないことから、木造屋根で覆われていたらしい
踊り場で分けられ、下段に13列、上段に10列の座席が並ぶ
駆け足で、上まで登った


中央 クレテス通り


アップで
クレテス通りの正面やや左にケルスス図書館
中央下に メミウス一族の像


クレテス通りの下り坂の左側には、モザイク飾りの歩道が


クレテス通りの右側、娼館の手前、スコラスティカ浴場からの排水が便器の下の溝を流れるという
50人分の、開放的な公衆トイレとのこと
トーガ?のすそをたくしあげ、隣人とおしゃべりしながら用をたす、
おおらかな古代エフェソス市民たちであったという


まだ、完全には、修復されていない

ゆるやかな坂を下りた所が、ケルスス図書館
ティベリウス・ジュリウス・ケルススは、ローマ帝国アジア州知事だった
114年に70歳で亡くなり、その墓はエフェソスのアゴラの入り口近くに造られた
まもなく息子のティベリウス・アキラは、父の墓の上に記念図書館の建設を始めた
アキラが病死した後、125年に完成した
265年、エフェソスを襲ったゴート族の蛮行によって、
12000冊の書物を蔵した図書館も破壊炎上し、再建されることはなかった
1970-1978年の修復作業により、オリジナルに近い形で再現した


正面の4体のファザード、ここにあるのはレプリカ、左一番目
このファザードの本物は、ウィーンのエフェソス博物館に運ばれている
知恵、学識、雄雄しさ、美徳を象徴するという


これは、学問の女神アテナの像


衛星画像の北側の部分
右下に、ケルスス図書館がある


ヘレニズム時代に馬車が行き交ったという大理石通りを、左に歩いていく


上の写真の人の多い左側にある、大理石通りの娼館への道しるべ
左上にハートのマーク
右下に女性の顔と、方向を示す足


振り返って、ケルスス図書館方向を見る
ここにあるのだ、人気スポットとのこと


これが、大劇場
ヘレニズム時代に建設され、ローマ皇帝クラウディス(41-54)が拡張工事を始め
皇帝トラヤヌス(98-117)の時代に完成した
高さ18mの三階建てスケーネ(ステージビル)
扇型に広がる観客席は22段、二つの踊り場で大きく3つに仕切られ
24500人の収容能力
屋根はなかったから、半円形のオーケストラには、雨水排水路が設置されていた
ローマ帝国時代には、ここで行われる剣闘士と野獣の戦いが人気を呼び
観客の安全のため、壁を高くしていた
現在も、文化的催しに利用されている
登ってみる、大きい
上から、右側から、中央奥へ伸びるアルカディアン通り
通りの奥が、港だったとのこと


大劇場を出ると、アルカディアン通り(港大通り)が、港へ続く
幅11m、長さ530m、大理石の道
ビザンチン時代に、皇帝アルカディウス(395-408)が、この道を改修してから、アルカディアン通りと呼ばれる


大劇場を斜め正面から、劇場体育館ごしに南東方向


小型のタクシー、珍しいと思って撮った


ジュースは、その場で絞ってくれる


イチジクのジュースだったか、酸っぱかった



パムッカレとカッパドキア

ずはどちらも世界遺産、パムッカレ石灰棚とカッパドキア。
ちょつとくどいが、良いところのみ、抜粋で。



パムッカレ・石灰棚

パムッカレとは、綿の城(パムック・カレ)という意味だそうだ。


パムッカレのホテルには、夜着いた
中央は吹き上げる温泉の露天部分と、建物の中は、有料100円程度のロッカールームとやはり温泉の湯船


水着を着て、帽子を被って入る
水着を着て、帽子を買って、入ってみた
露天風呂の温度はちょうど良い、42℃程度か、深さは40cmから25cm程度か、
泥色だ、細砂程度より少し細かい、少しジャリジャリする


朝、少し寒いので、湯気が立っている
吹き上げる勢いはある程度不規則


世界遺産パムッカレの石灰棚、有料で中を一望できる
真っ白の石灰石の棚だ


この辺りの一段の高さは30cmから1m程度か


夏場はもっと温泉を流しているらしいが、今は制限して流している




やっと下りられる箇所まで来た
いよいよ裸足になって、ズボンをまくって入る


中国人の団体、ガイドの事前指導で靴下を履いている
靴下なしだと、ところどころで足が痛い
靴下はたくさん持っていたので、言ってくれれば痛い思いをしないで済んだのに
浅い水溜りは水だ、みんなが座っているところは温泉が結構な勢いで流してある


ここは、湯が流れているので湯気が立っている
靴下を履いていないので、ところどころで痛い


上から西の方を見る


夏場は観光客が水着で中に入っている場面がよく出てくるところ
湯の中に、大理石の柱などが倒れている
石灰棚は、台地の端だが、この温泉だまりは、200mほど石灰棚の東北東



カッパドキア

カッパドキアには、いろいろな地域があり、それぞれ名前がついているが、
私は景色に気を取られ、地名についてガイドの説明を聞き漏らしている。
したがって、多少、間違いがあるかもしれないが、この景色の異様さには、感動した。


夜、カッパドキアのホテルに着き、翌朝、出発までに時間があったので、ホテルの周りを一周
カササギ(カラス科)をやっと撮れた、北欧にもいた、日本では佐賀県に多い


カササギ


朝早くから、熱気球が上がっている


カイマクル地下都市の入り口












約40分間地下にいたのだ、地下は5階まであるとのこと


外の土産物店、数十件あり、着るもの、ティーシャツ、飾りなどかあった


ウチヒサールからの遠望


砂岩のひだ状の地形


この出店で、干しいちじくを買った、甘かった




東の方に、エルジエス山 3917mが遠望できた
望遠で撮る






右下にキノコ岩、その奥にギョレメの町


洞窟住居で、チャーを頂く
その入り口


洞窟住居の中
蛍光灯が3つほど点いていた


敷物はトルコ絨毯




ご主人は軍人と聞いた


奥さんの内職で、絨毯などを織って売る


右奥が台所




天井はむき出し


奥さんが作った内職品、右下の靴下等が一枚確か千五百円で、女性たちに売れていた


洞窟住居のま上から、右下に台所とストーブの煙突


ギョレメの町を上から遠望




エルジエス山 3917m


洞窟レストランで昼食


中は暗いが、電灯で照明
スープとサラダ、ぶどうジュースを頼んでみた


ニジマスのソテー
まあまあだった


レストランの入り口、左はお土産店


ギョレメ野外博物館


あちこちに妖精煙突、キノコ岩が林立している


梯子で、皆が上がっている


小さな教会らしい、奥行き3mほどか
キリストかマリア様の絵が




少し歩いてみた




今晩は、アンカラまで行く
西のアクサライへ向かう途中のバスから。南西の山 ハサン山 3254m


ハサン山 3254m 全貌





イスタンブール


最後の観光はイスタンブール、抜粋で。



イスタンブールの旧市街


トルコの首都アンカラから、早朝より高速道路でイスタンブールの第一ボスポラス海峡大橋が見えてきた


座席の一番前に座らせてもらい、バッチリ撮れた。


北西側の景色






日本には見られない、かわったデザインの歩道橋


ガラタ橋に向かって坂を下る




ガラタ橋の上では、釣り人がたくさん




ローマ時代のヴァレンス水道橋が見えてきた


ヴァレンス水道橋をくぐる、あっという間


昼食の場所へ到着


数分、歩いてレストランへ


レストラン「グスタ」に到着、2階に上がる


イカの唐揚げ、ヨーグルトを付けて食べる、軟らかく温かく、おいしかった


イサキに似ていたが、味は鯛(たい)だった、おいしかった


食べ終えて、外へ



ブルーモスク

昼食後の第一番はブルーモスク(スルタン・アフメット・ジャミィ)
6本の尖塔が建つ
アヤソフィアの南側に、1609-1616年に完成した巨大なモスク


あいにく、全くの逆光


歩いて南側に回る、今度は順光


中へ入り、入り口に向かう、西側の平屋の部分


はいていた靴は備え付けのビニル袋に入れて自分で持つ
礼拝堂の南側からの全景、壁や柱にはイズニック・タイルのモザイク


正面、東南東方向(メッカ方向)?のステンドグラス


祭壇?では、親子がこれからひざまづき、祈りをささげる


足元の絨毯


天井のイズニックタイルによるモザイク


天井のイズニックタイルによるモザイク、高さ約43m、礼拝堂の広さ約2700u、ドームの直径約22.5m


正面中央のアップ


柱は直径約5m、4本で屋根のアーチを支える、確か大理石


礼拝堂の全景



アヤソフィア博物館

324-360年完成というから、実に1650年間たっているという
2度の焼失と再建を経ているとのこと
ブルーモスクの約300m北北東側


焼きorゆでトウモロコシを1本、1リラで売っていた、食べたかったが、糖尿病で我慢してしまった


料金所で料金払って中へ、入り口


修理中で部分的に足場が架っていた


壁面には、やはりモザイクが
上に半分写っている円盤は、直径7.5m、ラクダの皮の上に文字が描かれている
6つあるとのこと


高さ約56m、直径約33mの大ドーム
558年の地震で崩壊し、563年に再建されたもの
たび重なる地震のため、完全な円形ではないが、世界最大級といわれる
幾何学模様を施された40本の柱が天井を支え、中央には太陽が描かれている


ベルガマの壷、ペルガモンの大理石から作られた、
かつては外に置かれ、イスラム教徒は祈りの前にその水で体を清めたという


湿った支柱、柱の水に触れるだけで病が治り、女性は子供を授かるという伝説がある
銅板の穴に親指を入れ、一回転させれば願い事がかなうといわれる


アプス(後陣)のほぼ中央にある
上には、聖母子のモザイクが、
下には、ミフラーブがある
ミフラーブは、イスラム今日の礼拝用の壁窪で、
モスクに改修された際に設置された


聖母子のアップ、正面から見上げて
モザイク画だという
マリアと膝の上のイエス


祭壇の左側にあった?


聖母子のアップ、もう一枚の写真、やや左側から


石畳のスロープを大急ぎで上りながら


2階の回廊には、さまざまなモザイク画があった
ディーシス(請願図)
モザイクの細かさと巧みな表現力から、ビザンチン美術の最高傑作と評される
左はマリア、右は洗礼者ヨハネ、中央は全能のイエス


イエスのアップ
穏やかな顔つきである


すぐ前のモザイクの右下に、同様の構図が小さな額に入って置かれていた


中央 聖母マリアと抱かれるイエス
左 皇帝ヨハネス2世コムネノス、 右 皇后イレーネ


中央に全能のイエス
右 女帝ゾエ、障害に3回の結婚をした
左 三番目の夫、金貨の入った袋を持つコンスタンティヌス9世モノマホス
この結婚当時、ゾエは64歳だったという
結婚のたび、夫の絵は描き直されたという


2階回廊右側から撮った、後陣の聖母子モザイク


2階回廊左側からの後陣の全体図


後陣左側の下り口


湿った支柱、私も後でやってみた


パネルで、外側の1階回廊に展示されていたものの一部、
まだ、尖塔がなかったころの絵


アーチ屋根構造の説明図


上が入り口
入り口左手前の大理石柱跡




トプカプ宮殿博物館
1472-1478年完成


何度も増改築を重ねているという
アヤソフィア博物館から約300m北北東側

アフメット3世の給水泉


最初の門を入ったところ


表敬の門(バービュス・セラーム)
ここをくぐったところに、料金所と入り口がある


入り口の部分


料金所のところにカードを差し込むと一人分ステンレス・バーを押し回転される


入ってすぐのところにある全景模型
北側から写真、模型の中央後ろから入ってくる


別に、さらに詳しい模型があった
さきほど入った「表敬の門」は一番後ろ側
中央右側の建物密集部が「ハーレム」


会議の間




会議の間(御前会議の行われた場所)


内部









謁見の間(Audience Hall)






第2庭園




スルタン・アフメット3世の図書館、正面


宝物殿、中に有名な「トプカプの短剣・柄には大きなエメラルドが3個」等があるのだが、
撮影禁止


一番北東側からは、ボスポラス海峡が見える




ハーレムの入り口






黒人宦官の間の蝋人形?












スルタンの大広間




ステンドグラスとモザイクが美しい










ムラト3世のサロン?


外には、コクマルガラス?


厨房跡、
かつて数百人の料理人が、4000-5000人分の食事を作っていたという
中は見ていない


トプカプ宮殿の南東側に位置する、ずっと続く



グランド・バザール(カパル・チャルシュ)

最後は、バスで移動
もう疲れていた、何も買わなかった

北側の入り口


ゆるい上り坂で、さまざまな店が両側に並ぶ


北東側の入り口












中央通りの右側








やっと1時間、開放されてホテルへ向かう
トラムが後ろに




ガラタ橋の手前か
トラムが正面に


ガラタ橋を渡り、ホテルに向かう


最後はもう疲れていた、
ホテルのレストランで夕食を取った
添乗員も入れて7人ほどだったか
話ははずんだ

サラダ、量が多く、ご相伴でいただいた


ビーフの?
下にヨーグルト・サラダが
量が多く、サラダは珍しく残してしまった



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